インドをおさめた歴代の王様 マハラジャ

マハラジャ(マハーラージャまたはマハーラージャーとも言います)は、インドにおける「高位の王」や「偉大な王」を意味するサンスクリット語の称号です。また、女性の場合は「マハーラーニー」と呼び、マハラジャの妻または”女性が君主となる習慣”のある地域では王(マハラジャ)と同等の地位にある女性を指します。
※マハーラージャが学術書では使われており、一般的な表現となり「マハラジャ」は日本特有の表現となります。

=アショーカ皇帝が支配した帝国

アショーカ皇帝(Emperor Ashoka)

マウリヤ朝の第3代の皇帝(在位紀元前232~268年頃)、で初めてインドを統一した人物です。アショーカ皇帝はこれまでの戦いで多くの人々を殺してきましたが、カリンガの戦いで国を征服した際、無残な戦いで数十万人が殺され、焼けた住宅や散乱した死体を目の当たりにして、大きなショックを受け己の行った行為を深く後悔したのです。その後アショーカ皇帝は仏教に帰依し中央アジア、エジプト、マケドニア、リビア、ギリシャとアルバニアに行き、仏教を伝えました。このことがきっかけで仏教がインド国外に普及しました。アショーカ皇帝は法(ダルマ)の政治、第3回仏典結集を行いました。

インドの国旗にも描かれている人生を意味する中心のチャッカルはアショーカ皇帝が考えたもので、今でもアショーカ皇帝が建てたチャッカル、仏塔(ストゥーパ)がインド全土に残っています。アショーカ皇帝はインドだけではなく東南アジアなどからも尊敬され、理想の帝王とされています。

=ラジャラジャ・チョーラ&ラジェンドラ・チョーラが支配した帝国

ラジャラジャ・チョーラ&ラジェンドラ・チョーラ(Raja Raja Chola & Rajendra Chola)

ラジャラジャ・チョーラとその息子ラジェンドラ・チョーラは985~1014年に南インドのチョーラ王国を支配していました。彼らは南インドだけではなく、インド国内でも最高の王でした。ラジャラジャチョーラが南インドを統治し、更にチョーラ家は南インドを超えてマレーシアとインドネシアの一部アンドマンニコバル、スリランカとモルディブを支配しました。特にスリランカではチョーラ占有を開始しました。父と息子は、東南アジアにおけるタミル帝国を設立し、インドの他の王とは異なり、ユネスコの世界遺産の一部である(タンジョールシヴァ寺院を含む)100以上の素晴らしい寺院を建てました。彼らはインドを越えてその影響力を拡張するために、インド洋の貿易ルートを制御し、ビジネスの面でも大きな影響力を与えたのです。

=チャンドラグプタ マウリヤが支配した帝国

チャンドラグプタ マウリヤ(Chandragupta Maurya)

最初のインド皇帝であり、皇帝アショーカの祖父。彼はインドを統一し、ギリシャ帝国がアジアへの侵入を防ぐ事に成功しました。彼はインドの偉大な戦略家で様々な手段を通して皇帝を倒す方法を考案しました。彼がわずか20歳だったとき、主要な戦いに勝ち、東イランのアレキサンダーの軍隊によって領土を奪いました。チャンドラグプタ マウリアはアレキサンダーを倒した初めての人物としてギリシャで有名になり、ギリシャ語で「Sandracottos」ラテン語で「Andracottus」と呼ばれました。

=サムドラグプタとチャンドラグプタ2世が支配した帝国

サムドラグプタとチャンドラグプタ2世(Samudragupta & Chandragupta)

サムドラグプタはインド,グプタ朝第2代の王 (在位 335頃~376頃) です。グプタ朝の創始者であるチャンドラグプタ1世とリッチャビ家出身の王妃の間に生れました。アラーハーバード石柱碑文にはチャンドラグプタ1世が多くの子の中からサムドラグプタを後継者に指名したことが記されており、このため治世の初期にサムドラグプタは他の兄弟の反乱にあったようです。サムドラグプタは,その軍事的功業,才能と威徳をたたえたアラーハーバード石柱碑文によれば,ガンガー流域一帯に領土を拡大し,ラージャスターン,中央インドからデカン東部にかけての諸王を服属させ,南インドのカーンチー、パッラバ朝の領土まで遠征し,さらに周辺の諸部族や異民族,遠くはスリランカからも貢租を納めさせました。この広大な領域を継承したチャンドラグプタ2世は,古くから栄えた都市ウッジャイニー(ウッジャイン)を占領して,南北の交通の要衝マールワー地方を抑え,そこからグジャラートを征服して,3世紀間にわたって西部インドを支配したサカ(シャカ)族を滅ぼしたのです。サムドラグプタは「大王のなかの統王」や「最高の帝王」といった称号を用い、神格化された君主として振る舞いました。また、365年頃にヒンドゥー教 (バラモン教)の大供犠でアシュヴァメーダ(馬祠祭)を行いました。

サムドラグプタを父にチャンドラグプタ1世を祖父に持つチャンドラグプタ2世は、インドのグプタ朝第3代王(在位376頃~414頃)です。父王の征服事業を継承し西方のマールワー、グジャラート、カティアーワール半島に進出し、ウッジャインのサカ(シャカ)勢力を力によって支配しました。さらに南はデカン地方のバーカータカ朝ルドラセーナ2世に、ナーガ国出身の妃との間の娘プラバーバティを嫁がせて、その勢力を配下におさめるなど幅広い外交活動を行いました。

=アクバル皇帝が支配した帝国

アクバル皇帝(Akbar)

北インド、ムガル帝国の第3代皇帝(在位1556~1605)。アクバル皇帝は、帝国創始者であるバーブル死後の混乱のなかからムガル帝国を再興し、帝国を実質的につくりあげていった人物です。アクバルというのは、アラビア語で“偉大な”という意味です。ムガル帝国を発展させようと彼が寛容な宗教政策によって、帝国内にいたイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融和をはかり、内政を安定させようと努めました。ジズヤ(人頭税)を廃止や自らヒンドゥー教徒の王女と結婚し、優秀な人材ならヒンドゥー教徒でも高級官僚や将軍に任命するなど、公平で平和的な統治をめざしました。その結果、即位当初はきわめて不安定だった政権が落ち着いてきました。アクバル皇帝は、すべての官僚を等級づけすることで支配階層を組織化しました。また、軍制を整えて領土を拡大することで北インドの統一をなしとげ、首都をデリーからアグラへ遷都しました。軍事制度・官僚制度整備し、その基盤となる土地制度や税制、貨幣制度などを統一してムガル帝国の繁栄の基礎を作ったのです。

=マハラナ プラタープが支配した帝国

マハラナ プラタープ(Maharana Partap)

インドの歴史上で偉大な戦士プラタープ・シングは、ラージャスターン州のクンバルガルで1540年5月9日に生まれました。プラタープ・シングはメワール、北西インド、ラージャスターン州の支配者でした。彼は195cmの高身長で72kgの鎧を纏い、合計208kgの槍や2剣を持ち戦っていました。プラタープ・シングはムガル帝国との戦いの前に、アクバル帝に降伏していた自分の国内の仲間と戦い味方につけ、アクバルに戦いを挑んだのです。しかし、戦いを好まなかったアクバルは、平和的な同盟関係を結ぼうとプラタープに6回の交渉を試みましたが全て拒否し、第五の外交使節団の後に、プラタープはアクバルの提案を再び拒否するようにアクバルのいるムガル宮廷に自分の息子アマル・シンを送りました。この行為がアクバルを激怒させ、反抗的な彼の行為に起因し、アクバルはプラタープと戦いをすることに決めたのです。1576年6月18日にアクバルが軍司令官マンシンとアサフ・カーンにプラタープとの戦いを命令し、攻撃した結果、プラタープは敗北し逃亡しました。1579年後ベンガル、ビハール州とパンジャブ州で反乱が起こり、プラタープはこの状況を利用し、軍隊を集め再びムガル帝国に戦いを挑んだのです。プラタープは勝利し彼の領域クムラガル、ランタンボールとウダイプールのほとんどを奪還しました。それからプラタープはウダイプールから約60キロ南のチャヴァンドで彼の資本を再構築し、そこで彼の人生の残りを過ごし、自由の王として生き1597年1月29日に死亡しました。プラタープ・シングは唯一アクバルの支配力に抵抗した人物で、インドが今まで見てきた最強の戦士の一人として尊敬されています。

=プリタヴィ ラージ チョウハンが支配した帝国

プリタヴィ ラージ チョウハン(Prithavi raj chauhan)

プリタヴィ ラージ チョウハンは、12世紀チョウハン王朝、ヒンドゥー教の王でした。インドの歴史上でも有名で勇敢なプリタヴィは、1168年にアジメール王の父サムシュワール チョハンの王子としてアジメールで生まれました。プリタヴィは、幼年期にタイガーを道具を使わず手で殺したり、弓矢を目を閉じ音声のみで使用する事ができたり、自分の国のために命を提供したりと非常に勇敢で全世界中で英雄的な存在でした。プリタヴィが13歳の時の戦いで、グジャラート州の王ビーンデヴが敗れました。彼のそういった勇気ある行動が、彼の祖父アンガムにプリタヴィをデリーの王にすると宣言する要因でした。プリタヴィは強いラージプート帝国を築き、更に北インドにと自分の帝国を拡大していきました。プリタヴィの帝国は、パンジャブ、ハリヤナ州、ラジャスタン州とウッタル・プラデシュ州が含まれていました。

プリタヴィは敵の娘と結婚したので彼らの愛の物語は、インドの歴史の中で有名です。1191年テラインの町で プリタヴィはゴウリ ムハンマドとの最初の戦いで勝利し、ゴウリ ムハンマドを捕えましたが、罪を許し無傷で帰しました。しかし、翌年1192年再びゴウリ ムハンマドはテラインの町を攻撃し、プリタヴィに戦いを挑み、勝利しました。今度はゴウリ ムハンマドがプリタヴィを捕え、更に熱い鉄の棒をプリタヴィの両目に押しつけ盲目にしました。最期を感じたプリタヴィは最後のお願いとして弓矢を使いたいと言い、ゴウリ ムハンマドは盲目のプリタヴィを馬鹿にしますが、プリタヴィは音声だけで弓矢を扱える特技を活かし、ゴウリ ムハンマドに一矢を放ち殺しました。この時にプリタヴィもゴウリ ムハンマドの仲間達に殺されてしまいました。プリタヴィ26歳の時でした。

=シヴァージーが支配した帝国

シヴァージー(Shivaji)

シヴァージー伝説は17世紀に大きなマラータ王国を確立したのが、ムガル帝国は全盛期の時です。シヴァージーは父親から戦争の方法を学び、父の死後にマラータ王国を拡大し有名になっていきました。

アディル・シャーは、マラータ司令官としてシヴァージーの成長を警戒し、アフザルカーンと共にシヴァージーと戦い敗北しました。1663年には、シヴァージーはムガル帝国のシャイスタカーンに奇襲攻撃を開始し、シヴァージーはマラータからプネを取りあげました。1664年シヴァージーはムガール帝国の経済が豊富なスーラトの町を攻撃し、自分のものにしました。それを知ったアウラングゼーブ(アクバルの息子)は平和条約を理由にアグラにシヴァージーを呼びましたが、その理由は嘘でシヴァージーを捕まえるために騙したのです。しかしシヴァージーはアウラングゼーブの刑務所から脱出し、アウラングゼーブに復讐することを誓いました。シヴァージーは、容赦なくムガル帝国の要塞都市に様々な攻撃を開始し、富と面積の両方を奪還しました。ムガル帝国はマラータ帝国に、すべての戦いで敗北し、その結果、ムガル帝国の力が弱まっていったのです。他の王達でこれまでムガル帝国の威力に、戦いを挑む勇気のあるものはいませんでした。シヴァージーは数々の戦いでムガール帝国の大規模な軍隊を粉砕し、中央インドの強力なヒンドゥー教のルールを確立しました。マラータ帝国は、イギリス東インド会社の到着まで継続しました。こうして、ムガル帝国は衰退し、マラータ帝国が勢力を拡大していったのです。

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